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蒲生氏郷(がもう うじさと)

[2007年3月1日]

戦国武将「蒲生氏郷」英雄物語

 文禄四年(1595)、戦国の世を駆け抜けた一人の武将が40歳という若さで病に倒れ、この世を去りました。蒲生氏郷、その人です。彼は弘治2年(1556)、名門蒲生家の跡取りとして誕生。13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られました。これが彼の運命を決定づけることになったのです。14歳の氏郷は信長の部下として伊勢大河内城の戦に初参戦。大きな手柄を立てた氏郷に対し、信長は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報いました。
 日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもとで学んだ城下町づくりの手法を取り入れ、領内の行政、経済の改革に着手。日野は大きな繁栄の時代を迎えました。そんな彼のもとに、信長絶命の悲報が届いたのは天正10年(1582)のこと。氏郷は信長一族を守るため、日野城に立てこもりました。しかし光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結。秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北畠氏と伊勢で激突。次々と敵城を攻略し、伊勢を平定しました。この功績により、氏郷は伊勢松が島城主として転封。さらに会津に移り、92万石の大名となりました。
 武道ばかりではなく、和歌をはじめ文化面にも造詣が深く、茶道において利休七哲の一人に数えられるほどの文化人。利休の子である少庵を保護し、千家茶道の再興に尽力したことは有名です。また「レオ」という洗礼名も持つ彼は、イタリア人宣教師を家臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの熱烈なキリスト教信者でもありました。
 400年という歳月をこえ、日野の人々の心に生き続けてきた蒲生氏郷、その魂は今も信楽院で静かにふるさと日野の姿を見守っています。

 

伝蒲生氏郷公肖像画(近江日野商人館保管)

蒲生氏郷の生涯
西暦年号できごと
1556弘治2年蒲生氏郷、日野に生まれる。
1568永禄11年鶴千代(氏郷の幼名)、信長の人質となり、岐阜城へ入る。この時13歳。
1569永禄12年14歳で父賢秀と共に伊勢国大河内城に初陣。
1570元亀元年元服し、忠三郎賦秀と名乗り、信長の娘、冬姫と結婚。
1582天正10年6月10日、本能寺の変で信長自害。賢秀は直ちに安土城の信長の妻子を日野城に移す。
12月、氏郷は日野城下に掟を下し、楽市を奨励し、商業を保護する。
1584天正12年4月、氏郷が伊勢国、嶺城、加賀井城を攻める。
この功績によって、氏郷は、伊勢松ヶ島城12万石に転封となり、6月半ば、代々住み慣れた日野を後にして、大勢の家臣・職人を連れて、伊勢国へ赴く。この年より氏郷と名乗る。
1588天正16年松阪城が完成し、松阪城へ移る。松阪の城下町に日野町ができ、日野の商工人が続々と移住。
1590天正18年氏郷、秀吉の小田原出兵に従軍。
8月功により、会津黒川城42万石に転封となる。後に黒川を若松と改名。会津92万石の城主となる。
1591天正19年これより日野と奥州との関係が生まれ、後の日野商人の繁栄の基となる。
1592文禄元年文禄の役のため、九州に赴く途中、中山道武佐宿にて、故郷の綿向山を仰いで、望郷の歌を詠む。
1595文禄4年京都にて病に倒れ、大徳寺に葬られる。40歳。

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