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蒲生氏郷

[2017年3月1日]

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歴史、祭り

蒲生氏郷

「たから」の説明

 蒲生氏は、中世、日野一帯に勢力を誇った武将です。鶴千代(後の氏郷)は、蒲生賢秀の長男として、弘治2(1556)年に、中野城(日野城)で生まれたと伝えられます。やがて織田信長の上洛が始まると、蒲生家も信長に臣従し、鶴千代は人質として岐阜に送られました。その後元服して名を忠三郎賦秀(ちゅうざぶろうやすひで)と改め、翌年の初陣で功績を立て、この年の冬に信長の娘冬姫と結婚し日野へ帰国したとされます。その後も織田家の家臣として各地を転戦しました。
  本能寺の変の際には、賢秀とともに、氏郷は信長の妻子を日野へ保護しています。信長の死後は羽柴秀吉に従い、賎ヶ岳の合戦や小牧・長久手の合戦で功績を立てた結果、伊勢松ヶ島12万石を拝領しました。さらに、天正13(1585)年の紀州攻めや越中攻めに従軍し、名を賦秀から氏郷と改めたのでした。また、同年に高山右近らのすすめなどによりキリシタンの洗礼(洗礼名はレオン)を受けました。その後も九州攻め、小田原攻めで功を立て、会津四郡・南仙道五郡(または12郡)の計42万石へと転封されました。
  奥州に移った氏郷は、領国の経営だけではなく、秀吉の名代としての役割も果たし、九戸(くのへ)の乱の平定戦では、豊臣軍の総大将として、総勢六万余の軍勢を率いて転戦しました。その功により、73万4千石(文禄3年検地後には91万9320石)を拝領することとなり、徳川家康、毛利輝元に次ぐ大大名となり、会津黒川の地を治めました。
 氏郷は、治めていた会津黒川の地をふるさと日野の「若松の森」にちなんで、「会津若松」と改めたとされます。また、文禄元(1592)年、文禄の役のため九州に向かう途中、中仙道、武佐の宿よりふるさと日野を望み「思ひきや 人のゆくへぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは」の歌を詠んだとされています。ふるさとから遠く離れても日野のことを想う氏郷の心がうかがえます。

ひばり野公園の蒲生氏郷公像

信楽院本堂(滋賀県指定文化財)

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