蒲生氏郷公の生まれた町日野
- [公開日:]
- [更新日:]
- ID:4858
ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます
蒲生氏郷公の生まれた町日野
日野の蒲生氏
蒲生氏は、中世、日野一帯に勢力を誇った一族です。
戦国時代の中頃には近江守護六角家の重臣として活躍しました。
織田信長の家臣として
蒲生氏郷(幼名鶴千代)は、蒲生賢秀の長男として、弘治2年(1556)に中野城で生まれたと伝えられます。やがて織田信長の上洛が始まると、蒲生家も信長に臣従し、鶴千代は人質として岐阜に送られました。
永禄12年(1569)、元服して名を「忠三郎賦秀」と改めた氏郷は、翌年の初陣で功績を挙げ、冬に信長の娘と結婚し日野へ帰国を許されたとされます。
それ以後、父賢秀とともに織田家の家臣として功績を重ねる中、天正10年(1582)、本能寺の変が起こりました。この際、二の丸御番衆として安土城を守っていた賢秀は、明智光秀の誘いに応じず氏郷を呼び寄せて信長の妻子を日野へ保護しました。
こののち、賢秀に替わり氏郷が日野を治めたと考えられます。
豊臣秀吉の時代・・・松坂、会津の大名として
信長の死後は羽柴秀吉に属して賎ヶ岳の合戦や小牧長久手の合戦で功績を挙げた結果、伊勢松ヶ島12万石へ転封となりました。
天正13年には、高山右近らのすすめなどによりキリシタンの洗礼を受けています。
その後、松坂城の築城や城下の整備を進めるとともに天正15年の九州攻め、天正18年の小田原攻めなど大きな合戦で功績を重ねた結果、会津42万石へと加増されました。
奥州に移った氏郷は、領国の経営だけではなく、奥羽における秀吉の名代としての役割も果たし、九戸の乱の際には、豊臣軍総勢6万余の総大将として出陣しました。
戦後、その功績により、天正19年には73万4千石、文禄3年(1594)には91万9320石を領することとなり、徳川家康、毛利輝元に次ぐ大大名となりました。
また、文禄元年から黒川城の大改修を行い、名を故郷日野の「若松の森」にちなんで「会津若松」と改めるとともに、城下の整備を行ったのでした。
このようにさらなる隆盛を極めると思われた氏郷でしたが、朝鮮出兵のために駐屯していた肥前名護屋において発病し、文禄4年2月7日に40歳の若さで死去しました。
辞世の句は「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」で、遺体は京都大徳寺に埋葬され、後日、昌林院という塔頭が建立されました。また遺髪は、会津興徳寺のほか日野の信楽院にも送られ供養されることとなりました。
文化人 氏郷
氏郷は武勇に秀でただけでなく茶の湯や能にも通じた趣味人でした。
茶の湯については、利休七哲の筆頭とされ、利休が秀吉に切腹を命じられた際には次男少庵を会津にかくまい、その赦免に尽力しました。
また、文禄2年に秀吉が主催した御所での能(禁中能)に出演し、好評を得たことも記録に残っています。
町づくりにすぐれた政治家
氏郷は産業政策においても秀でており、日野に楽市楽座を開き、町の活性化に努めました。松坂や会津若松でもいち早く城下町を整備して商業を盛んにし、地場産業の育成に努め活気のある町にしました。
キリシタン大名
早くから洗礼を受け、「レオン」と名乗る敬けんなクリスチャンでした。秀吉のキリシタン禁制の下でも領民にキリスト教の教えをひろめ、また先進的な南蛮文明にも興味を抱き、その文化を導入したりローマ法王に使節団を送ったりもした、とも言われています。